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Learning program学習プログラム - 歴史学習 -

歴史上の人物

@平清盛

▲清盛の像(廿日市市)

▲音戸の瀬戸・清盛塚(呉市)

▲厳島神社(廿日市市)
平安時代末期、平清盛は、瀬戸内海の中枢の地である安芸国の国司を務め、厳島神社を深く信仰するようになりました。
清盛の厳島神社参詣は記録に残されているだけでも6回におよび、一門子弟も頻繁に参詣しています。
仁安2(1167)年に太政大臣に任命され、栄華の極みに達すると、翌年には社殿の大改装を行い、現在の私たちが目にする壮大、秀麗な寝殿造を完成させました。
清盛をはじめ平家一門の安泰と隆盛を祈願して、善根の限り、美麗の限りを尽くして32人が写経し、当時の工芸技術の粋を集めて製作、奉納したものが、絢爛豪華な「平家納経」33巻です。
そのほかにも槍扇、能面など数多くの宝物が奉納されました。
また、平清盛は厳島神社参詣のために、音戸町と倉橋町(ともに呉市)の間にあり、潮の流れが早く、岩礁もあって難所と言われた「音戸の瀬戸」と開削したと伝えられています。難工事の最後の日に、清盛は沈まんとする太陽に向かって金扇をかざして呼び戻し、ついに完成させたという話が伝わっています。その功を称えた「清盛塚」が今も残っています。
A毛利元就

▲毛利元就像(安芸高田市)

▲百万一心碑(安芸高田市)

▲毛利元就の墓(安芸高田市)

▲三矢の訓跡碑(安芸高田市)
関東の相模国を本拠とする毛利氏ですが、時親の時代、建武3(1336)年に広島の吉田荘に下向し、郡山城を築城し拠点としました。
その200年後。大永3(1523)年に毛利家の当主となったのが元就です。
そのころ、中国地方は周防山口の大内氏と出雲の尼子氏が激しい勢力争いを繰り広げるなか、元就は巧みな戦略と知略によって勢力を着々と拡大し、毛利一族の基盤を固めました。
弘治元(1550)年、大内氏の重臣・陶隆房(後の晴賢)を厳島で滅ぼし、次いで尼子氏も滅ぼして中国地方の覇者となりました。
元就が「三矢の訓」を説いたといわれる屋敷跡には碑が立てられ、郡山城拡張の際に「百万一心」と彫った石を人柱に替えて埋めたという古事に由来する碑などが吉田町(安芸高田市)にあります。
元就のあとを継いだ孫の輝元は、新しい城造りを決意、太田川を望む山から中国地方一帯を治めることのできる城と城下町建設のための地を見立て、交通の要衝であった太田川の洲、五箇村に築城を開始しました。
何度も洪水に苦しめられるなど工事は難航を極めましたが、大阪城をしのぐほどの壮大な城が永禄2(1559)年完成しました。
B菅茶山と頼山陽

▲廉塾(福山市)
福山藩の儒者であり、詩人、また教育者でもあった菅茶山は、後に郷里の備後国川北(福山市神辺町で、「廉塾」を開き、多くの子弟を育てました。
寛政12(1800)年、血気盛んな年頃であった頼山陽は広島藩を脱藩、その罪により自宅の一室に幽閉されましたが、その後、父の頼春水と親しかった菅茶山に「廉塾」の塾頭として迎えられ、薫陶をうけながら青春の一時期を過ごしました。
茶山は終生、山陽をわが子のように心配し、擁護しました。
山陽は後に、勤皇の志士たちに大きな影響を与え、明治という新しい時代につながるきっかけとなったとされる「日本外史」を著しましたが、その構想は幽閉されていた間に練られたといわれています。